「シン・ゴジラ」感想 -”大人向けホラー”として見るシン・ゴジラ-

最近話題のシン・ゴジラを見てきました。
とても面白かったです。

まずは感想をつらつらと。そのあとに考察も少々。

(感想1)情報=刺激=快楽×2時間

圧倒的情報量、これはEVAを観ているときの感覚に近かったです。
読み終わる前に切り替わるテロップ、大勢の人間が早口で専門的(軍事的、科学的)な会話を交わし、相対するゴジラも次々とこちらの予想を上回る行動をとり続けます。

「よく分からないけれど、なんとなくこの人たちがやろうとしていることにはちゃんとした理由があるんだな」と感じられるのは、説得力のある演技と綿密な取材のおかげなのでしょう。

安心して、心地よい刺激に身を委ねられる2時間です。

(感想2)ゴジラが最強に不気味で恐い、そして強い。

私が今まで持っていたゴジラのイメージは、ゴジラVSスペースゴジラのような「前を向いたゴジラ」でした。それが今回完全に覆されました。魚類のように横についた目が、こちらの目と合うことはありません。

意思の疎通の不可能な生命体が、理不尽なまでの災厄を振りまいていきます。(が、道理は通らずとも理屈は通っているので、そういう意味でこのゴジラという作品は本来ホラーではなくSFと言えるのでしょう)

ゴジラが背や尾から破壊光線を出すのを見て、スタジオカラー特有の「何でもあり感」は健在だなと思いました。そういうの好きなので。

余談ですが、まるで兵器のように精密に動作するゴジラの迎撃機構を見て、メガゾーン23 PARTⅡの月の防衛システムを思い出しました。

(感想3)出てくる人皆全てカッコいい。

最初は花森防衛大臣が印象的でしたが、二回目見たときは志村(矢口の秘書官)の活躍が目に留まりました。

本来なら、ゴジラに対し一致団結している中で足を引っ張ろうとする人間(日本人)がいてもおかしくありません。(矢口や赤坂に対して私怨を持つ政界の人間など)しかしそういった「後ろ向きなリアリティ」をなるだけ排除してくれているのもありがたい、顧客が求めているものを分かっているなと思いました。

「駆け引き」はいい、だが「足を引っ張る」ような低俗な輩は、このゴジラとの神聖なる戦いの物語には不要ですからね。

以上が感想です。

ここから先は考察したことを述べたいと思います。(ごく簡単な考察です)

(考察1)「現実 対 虚構」がもたらす一体感

このシン・ゴジラは、ゴジラという虚構を与える容れ物として現代日本のリアリティを追求することで恐怖を演出し、フィクションとしての消費よりも一歩踏み込んだ揺さぶりを鑑賞者に与えることに成功しています。(この考察では恐怖を強調していますが、この振り切れた恐怖は、映画終盤に緊張と興奮に転換します)

人間は案外不幸な話をそれなりに消費できるものなのですが(はだしのゲン、火垂るの墓、闇金ウシジマ君、バトルロワイアルなどなど)、この映画はその一歩上を行っていたように思えます。(バトルロワイアルについては後の項で補足します)

漫画「鈴木先生」のひかりごけ演技指導シーンを思い出しました。

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高いレベルでまとまった演出、効果音、BGMも相まって、鑑賞者はその枠を飛び越えて映画の世界と一体(いわゆるトランス状態)になります。

ただし身をもって映画と一体になった後に気づいたこともあります。

それは「自分が映画の中に入り込んだ」のではなく、その逆で「ゴジラが自分の意識の中に入り込んだ」ということです。

言葉遊びのように感じるかもしれませんが、映画というのは当然ながら目を通して人の脳が認識するものです。

例えばハリーポッターの場合は「魔法が使える世界」という箱に入った状態で、戦争映画の場合は「第二次世界大戦中の世界」という箱に入った状態で登場人物たちの行動を認識します。

ただしゴジラの場合はその二つの例と異なります。ゴジラ(と自衛隊)は「現代日本」という箱に覆われた状態で頭の中に入ってこようとします。しかしその「現代日本」という箱は、鑑賞者が既に頭の中に持っています。するとどうなるのかというと、ゴジラを覆うその不要な箱は取り去られ、ゴジラがダイレクトに意識の中に入り込んでくるのです。

リアリティそのものが一体感の理由ではなく、そのリアリティが、鑑賞者が今まで頭の中で培ってきた現実と一致していることが一体感の理由になるのです。(故に戦争映画を突き詰めても、鑑賞者が「戦時中の世界」越しに認識する限り、ある一定以上の恐怖を感じることはできません)

私がシン・ゴジラの中で一番恐いと思ったのは、予告映像にもあったシーンですが、ある引きの画面で住宅街を横切るゴジラとそのゴジラが通った跡としてつぶれた住宅とそこから発せられる煙の軌跡が一本の線として伸びている場面です。

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あの瞬間私の意識の中で、ゴジラという存在が「厄災」としての実感を持ったと思います。

(考察2)なぜ「大人向け」ホラーなのか

シン・ゴジラという映画に対し並々ならぬ恐怖を感じる理由として、ゴジラが動き回る世界(現代日本)が、鑑賞者がもともと頭の中に持っているリアルと一致することにより、鑑賞者はゴジラ(虚構)をダイレクトに認識できるからと前項で述べました。

これが意味するところは、今まで培ってきた現実がリンクすればするほど、つまり大人であればあるほど恐怖を感じるということです。

故にこのシン・ゴジラは大人向けホラーだと思っているのですが、他にも大人向けと言える理由があります。

それを述べる前に少し話を変えますが、私は前項で、消費される恐怖作品の一つに「バトルロワイアル」を挙げました。これについて補足したいと思います。

今の私がバトルロワイアルを読んだり観たりしても、おそらくそこまで恐いと思うことはないです。多少の残酷描写に痛々しいと思うことはあるかもしれませんが。

しかし中学生であった私は、この作品(小説版)を読んで、シン・ゴジラを観たときのようにフィクションに対する恐怖以上の何かを確実に感じました。自分の(意識の中に持つ)日常がこんな風に侵されてしまうんじゃないかと錯覚してしまうような感覚に。

それは聖書にも似た本の不気味な分厚さによるものであったり、正義感や価値観が育まれる思春期において理由の無いデス・ゲームという生命を弄ぶ物語に触れることへの背徳感によるものであったり、またクラスメート同士で殺し合う(クラスメート同士のやりとりで完結する)という物語が、家と学校を往復するしかない中学生の私の意識とリンクしやすかったからであったりしたためと思います。

幼稚園の子が「おしいれのぼうけん」を読んで恐怖するのも、小学生が「学校の怪談」を観て恐怖するのも、中学生が「バトルロワイアル」を読んで恐怖するのも、大人が「シン・ゴジラ」を観て恐怖するのもすべて同じ理由で、映画の世界と受け手自身が持つ世界(価値観)との親和性が、プラスアルファの揺さぶりを受け手に与えるのだと思います。

という閑話休題を挟んで、ゴジラが大人向けホラーである理由を探るために、大人特有の価値観が何かないかと考えてみます。

それはずばり、「生命を奪われることよりも生活を奪われることへの恐怖の方が大きい」ということです。

家を失うこと、職を失うこと、政府機関の喪失、これらが大人にとっての恐怖です。

シン・ゴジラで人が死ぬところを直接描いたシーンはありません。しかし大人はゴジラを観て恐怖を感じます。

それはなぜか、命よりも重いものが、目の前で奪われているからです。

(雑記1)

「現実対虚構」というキャッチコピーを踏まえたうえでシン・ゴジラを鑑賞し、この感覚どこかで感じたような…とモヤモヤしていたのですが、最近気づきました。

それは漫画「3月のライオン」です。

3月のライオンはシン・ゴジラと真逆で、主人公を囲む暖かい川本家という虚構を苦しめる「いじめ」と「妻子捨男」の描写があまりにも現実的なのです。同作者のハチミツとクローバーも恋愛描写についてはなかなかシビアでした(選ばれたもの、選ばれなかったものがはっきりしている)がそれ以上でした。

主人公の挫折や葛藤よりもそちらの方が辛く、聖域が蝕まれる感覚を感じ、正直に言って読む手が止まりかけてしまいそうになるくらいに苦しいと感じました。

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虚構に現実を散りばめるなんて漫画は普通みんなそうじゃないの?と思われるかもしれませんが、3月のライオンはその練度がずば抜けているということです。

(雑記2)

シン・ゴジラはまるでボレロのよう(赤い卓の上で踊るゴジラとそれを囲みながら踊る鑑賞者)というコメントを考察のどこかに入れたかったのですが、よくよく考えたらそれって初代デジモン映画ですね…。細田守恐るべし。

(雑記3)

小説のバトルロワイアルはなぜか中学の図書室に置いてありました。あの黒さと分厚さは本当に不気味でした。

 

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